花見月の地名の由来・・・

「花見月」というロマンチックな名前の集落が中能登町にあることを紹介しました。
この名前の由来を知りたくて、手持ちの地名辞典や中能登町役場、
それに役場から紹介された区長さん宅や集落の古老(H.I氏)宅に
電話をしてお話を聞くことにしました。

しかし、合併前の鹿島郡鳥屋町史にあるように「花見月」の由来は(不詳)のとおり
詳しいとことは良くわかりませんでした・・・

花見月の地名の由来・・・_d0043602_15522866.jpg
北陸鉄道のバス停の看板

花見月の地名の由来・・・_d0043602_15533077.jpg
平凡社発刊の石川県の地名 日本歴史地名大系⒘

花見月の地名の由来・・・_d0043602_15545349.jpg
1991年9月29日発行 初版第1刷 特別定価24,000円

花見月の地名の由来・・・_d0043602_15571343.jpg

花見月の地名の由来・・・_d0043602_1556396.jpg

この地域からは縄文土器や平安時代の須恵器の窯跡が見つかっていることから

古くから人の営みがなされようですが、記録文書として残るのは1351年(観応2年)に記された
長野季光軍忠状の中に戦いの地として「花見槻」(はなみずき)の名が登場している。
この時代は南北朝時代(1349~1352)とも呼ばれ
室町幕府内の内紛から足利直義と足利尊氏が対立
この地にあっても互いの所領地に攻め入ることがあったようです。

槻は欅(ケヤキ)の古い言い方(漢字)とのことで
花見についても
万葉仮名使いで違う意味をもつているかも知れませんね・・・
古老からFAXで送っていただいた資料「花見月の今昔」の中にこんな歌が載っていました。
「都鳥 やつるるころの 花見月 ちりぢりの愛 よみがえるかな」塚本邦雄(新歌枕東西百景) 


memo:「観応の擾乱」「花見槻の戦い」「長野季光軍忠状」(得江文)
※足利直義党の井上袋丸・富来俊行らが拠点の羽咋郡富来院から花見槻方面に進出する。
この南北朝を背景とする一連の戦いは尊氏党が勝利する。

by makimaki59 | 2016-01-26 15:54 | 日記
<< 北信越ジュニアヨット大会のトロフィ 寒波の峠を越える >>